データ化学工学研究室物語 第I部 第1章 AIは魔法ではない

データ化学工学研究室物語

第I部 研究室配属前夜のデータ化学工学

第1章 AIは魔法ではない

 

瀬戸遥がその研究室の名前を初めて見たのは、三年生向けの研究室紹介資料の中だった。

データ化学工学研究室。

化学工学という言葉には、まだ少しだけ距離を感じていた。反応工学、分離工学、移動現象、プロセス制御。講義では聞いたことがある。試験前には、何度もノートを見返した。けれど、それらが自分の手で研究するものになるという実感は、まだなかった。

その前に付いている「データ」という言葉は、さらに不思議だった。

化学は、物質を扱う学問だと思っていた。フラスコの中で色が変わる。白い粉末が析出する。試料を測定装置に入れる。グラフが出る。物質があって、実験があって、結果がある。

でも、データ化学工学。

データが先にあるのだろうか。
それとも、化学工学をデータで考えるということだろうか。

研究室紹介資料には、いくつかの研究テーマが並んでいた。

化学構造と物性の関係を調べる。
新しい材料や分子を設計する。
次に行うべき実験条件を提案する。
化学プラントの状態をデータから推定する。

遥は、画面をスクロールする手を止めた。

次に行うべき実験を提案する。

そんなことができるのだろうか。

実験とは、先生や先輩が考え、学生が準備して、装置を動かし、失敗しながら進めるものだと思っていた。もちろん、機械学習やAIという言葉は知っている。講義レポートを書くときに、対話型AIに説明を聞いたこともある。けれど、AIが「次に何を実験すべきか」を提案するというのは、まだどこか現実離れして聞こえた。

遥はノートパソコンを開き、つい、いつもの癖で対話型AIに質問した。

化学・化学工学の研究でAIを使うと、何ができますか。

すぐに答えが返ってきた。

物性予測。材料設計。反応条件最適化。プロセス制御。異常検出。

整った箇条書きだった。読みやすく、分かりやすく、どこか立派だった。

遥はその答えを見ながら、小さくうなずいた。

「なるほど……AIで材料を設計できるんだ」

口に出してから、少しだけ胸が高鳴った。

もし本当にそうなら、すごい。実験の前に、どの材料がよさそうか分かる。合成する前に、どの分子がよさそうか予測できる。たくさんの条件を試さなくても、良い実験条件を選べる。

AIがあれば、研究はずいぶん楽になるのかもしれない。

そう思ったところで、研究室見学の開始時間が近づいていることに気づいた。遥は慌ててパソコンを閉じ、ノートと筆記用具を鞄に入れた。

その日、データ化学工学研究室のドアは開いていた。

中から、キーボードを打つ音と、学生たちの話し声が聞こえてきた。研究室というと、薬品の匂いがして、白衣を着た人たちが忙しく動いている場所を想像していたが、そこは少し違っていた。もちろん、奥には実験室へ続く扉もある。けれど、部屋の手前には大きなモニターがいくつもあり、画面には散布図や表、分子構造らしき図、そして何本もの線が上下する時系列データが映っていた。

遥は入口で立ち止まった。

「見学の三年生?」

声をかけてきたのは、白衣ではなく、紺色のパーカーを着た大学院生だった。机の上にはノートパソコンが二台並び、一方の画面にはプログラム、もう一方にはグラフが表示されている。

「あ、はい。応用化学科三年の瀬戸遥です」

「瀬戸さんね。どうぞ。今、先生が来ます」

案内された椅子に座ると、遥は部屋の中を見回した。壁には、国内学会や国際学会のポスターらしきものが貼られていた。英語のタイトルもある。図の中には、分子構造、高分子の模式図、プラントの配管のような図もあった。

ここでは、何を研究しているのだろう。

化学なのか。
化学工学なのか。
情報なのか。

たぶん、その全部なのだろう。

しばらくして、先生が入ってきた。見学に来た学生は遥を含めて五人ほどだった。先生は前に立つと、研究室紹介のスライドを開いた。

「今日は、データ化学工学研究室で何をしているのか、簡単にお話しします」

スライドの最初には、分子構造、材料の写真、プロセスデータのグラフが並んでいた。

「この研究室では、化学や化学工学のデータを扱います。対象は一つではありません。分子の構造と物性の関係を調べることもあります。材料の組成や製造条件から物性を予測することもあります。実験データから次の実験条件を考えることもあります。化学プラントのセンサーデータから、直接測りにくい品質を推定することもあります」

遥はノートに書いた。

分子。材料。実験条件。プラント。

思ったよりも広い。

先生は次のスライドに進んだ。横軸と縦軸のある散布図が映った。点がいくつも並び、その真ん中を曲線が通っている。

「AIや機械学習という言葉を聞くと、何でも答えを出してくれるものだと思う人がいます。でも、まず大事なことがあります」

先生はそこで少し間を置いた。

「AIは魔法ではありません」

遥は、思わず顔を上げた。

「AIは、過去のデータに含まれている関係を学ぶ道具です。たとえば、化学構造と物性のデータがあるとします。そのデータを使って、構造と物性の関係をモデル化する。そうすると、まだ合成していない化合物についても、構造から物性を予測できるかもしれません」

まだ合成していない化合物の物性を予測する。

さっき、対話型AIが出してきた言葉と似ている。けれど、先生の説明は少し違っていた。AIが勝手に答えを出すのではない。過去のデータがあり、その中に関係があり、それを学ぶ。

「材料でも同じです。材料の組成、合成条件、製造条件と、得られた物性のデータがあれば、条件と物性の関係を学べます。すると、望ましい物性に近づくために、次にどの条件を試すかを考えられるかもしれません」

遥は、ノートに「次の実験」と書いた。

「プロセス管理でも同じです。化学プラントでは、温度や圧力のように簡単に測れる値もあれば、製品品質のように測定に時間がかかる値もあります。簡単に測れるデータから、測りにくい値を推定できれば、プロセスをより早く、安定に管理できます」

プラントのデータを見て、測りにくいものを推定する。

遥の頭の中で、化学が少しずつ表の形になっていくような感覚があった。構造、条件、温度、圧力、物性、品質。講義では別々に出てきた言葉が、データという形で同じ机の上に並べられていく。

けれど、同時に不安にもなった。

面白そうだ。
でも、自分にできるのだろうか。

数学は得意ではない。統計も、試験のために覚えた程度だった。プログラミングは、授業で少し触れたことがあるが、エラーが出るたびに固まってしまう。AIと聞くと便利そうだと思う一方で、中身が分からないものを使うのは怖かった。

先生は、見学の学生たちを見回した。

「この研究室で大事なのは、最初から何でもできることではありません。Pythonが得意である必要も、機械学習を全部知っている必要もありません」

遥は少しだけ安心した。

「ただし、自分で考える必要はあります」

安心は、すぐに別の緊張に変わった。

「先生や先輩やAIが言ったことを、そのまま実行して、結果をまとめて報告するだけでは研究になりません。もちろん最初は真似から始まります。コードを動かす。サンプルデータを読む。先輩に教えてもらう。それは必要です。でも、そこから小さくてもよいので、自分で調べる。少し条件を変えて試す。結果がなぜ変わったのか考える。その一歩が大事です」

先生の声は厳しいわけではなかった。けれど、言葉はまっすぐだった。

遥は、ノートの端に小さく書いた。

自分で調べる。
試す。
考える。

その三つの言葉は、簡単そうで、重かった。

先生は一つの例を出した。

「たとえば、ある学生がAIに『高性能な材料を見つける方法を教えてください』と聞いたとします。AIはきれいに答えるでしょう。データを集める、特徴量を作る、モデルを構築する、最適化する、と。では、その学生は研究を理解したことになるでしょうか」

遥は、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。

さっきの自分だ。

対話型AIに聞いて、出てきた答えを見て、分かった気になっていた。

「大事なのは、その答えを見たあとです。何のデータを集めるのか。何を予測したいのか。どの特徴量なら実験前に得られるのか。そのモデルはどの範囲で信じてよいのか。AIが出した言葉を、自分の研究の言葉に置き換えられるかどうかです」

先生はスライドを閉じた。

「今日の見学では、難しい理論は説明しません。代わりに、皆さんに一つだけ考えてもらいます」

教室のような静けさが研究室に落ちた。

「データ化学工学では、何を入力として、何を知りたいのか。そこを考えるところから始まります」

見学の後半では、大学院生がいくつかの研究例を紹介してくれた。

一人の先輩は、分子構造を数値に変えて物性を予測する話をした。画面には分子構造が映り、その横に数字の列が並んでいた。分子量、原子の数、部分構造の数。遥にはまだ一つ一つの意味は分からなかったが、化学構造をそのままAIに読ませるのではなく、機械が扱える形に変換しているのだということは分かった。

別の先輩は、仮想的な樹脂材料のデータを見せてくれた。原料の組成、温度、時間、そして物性。表の一行一行が、一つの実験に対応しているという。

「この表を見るだけだと、どの条件がいいか分かりにくいですよね。でも、グラフにしたり、モデルを作ったりすると、次に試す候補を考えやすくなります」

先輩は、さらりと言った。

次に試す候補。

遥は、その言葉に引っかかった。

「先輩は、モデルが出した候補をそのまま実験するんですか」

自分でも少し意外な質問だった。普段なら、見学で質問することはほとんどない。分からないことがあっても、あとで調べようと思って黙ってしまうことが多かった。

先輩は笑った。

「そのまま、は危ないですね」

「危ない?」

「モデルは、数字しか見ていません。候補の条件が実験できるかどうか、材料として意味があるかどうか、既存データから離れすぎていないかは、人間が確認しないといけません。予測値が良くても、実験できない条件だったら意味がないですし」

「AIが良いって言っても、ですか」

「そうです。AIが良いと言っても、です」

先輩は、画面の中の表を指さした。

「それに、AIは『なぜその研究をするのか』は決めてくれません。目的を決めるのは研究者です。何を良い材料とするのか。どの物性を重視するのか。実験回数を減らしたいのか、新しい領域を探索したいのか。それによって、使うデータも、モデルの見方も変わります」

遥は、ノートに書こうとして、手を止めた。

目的を決めるのは研究者。

それは当たり前のようで、今の遥には新しかった。AIが答えを出してくれると思っていた。しかし、何を答えとするかは、人間が決めなければならない。

見学の最後に、先生が学生たちに小さな課題を出した。

「今日見た研究テーマの中から、一つ気になったものを選んでください。そして、そのテーマについて、三つのことを書いてみてください」

先生はホワイトボードに書いた。

一つ目。何を知りたいのか。
二つ目。何を入力として使えそうか。
三つ目。AIや機械学習だけでは判断できないことは何か。

「正解はありません。きれいに書く必要もありません。むしろ、分からないところを残してください。ただし、AIの答えをそのまま貼るのは禁止です。自分で考えた言葉で書いてください」

遥は、思わず苦笑した。

見透かされているようだった。

その日の夜、遥は自宅の机でノートを開いた。研究室見学でもらった資料、対話型AIの回答、自分のメモを横に並べる。

最初に、こう書いた。

AIで高性能材料を探す。

しばらく見つめてから、横線で消した。

それでは広すぎる。今日、先生が言っていた。「何を知りたいのか」を決める必要がある。

遥は、研究室紹介で見た分離膜材料の話を思い出した。気体を分ける膜。透過しやすさと、選択性。片方だけが良くてもだめで、両方が大事だと先輩が言っていた。

遥は、もう一度書いた。

知りたいこと:高分子膜の構造や作り方から、気体の透過性や選択性を予測できるか。

これなら、少し具体的だ。

次に、入力として使えそうなものを考えた。モノマーの構造。組成。製膜条件。温度。もしかすると、膜の厚さも関係するかもしれない。けれど、膜を作らないと分からない値を入力にしてよいのかは分からない。

遥は、そこで手を止めた。

分からない。

いつもなら、そこでAIに聞いていたかもしれない。けれど今日は、すぐには聞かなかった。

まず、自分の言葉で書いた。

入力:モノマーの構造、組成、製膜条件など。ただし、膜を作る前に分からない値を入力にしてよいかは検討が必要。

最後に、AIだけでは判断できないこと。

これは難しかった。

遥は、昼間の先輩の言葉を思い出した。

実験できるか。
材料として意味があるか。
既存データから離れすぎていないか。
何を良い材料とするか。

遥は、ゆっくり書いた。

AIだけでは判断できないこと:提案された材料が実際に合成・製膜できるか。予測値を信じてよい範囲か。透過性と選択性のどちらをどの程度重視するか。

書き終えてから、遥はノートを見返した。

たった数行だった。研究と呼ぶには、あまりに小さい。けれど、昼間にAIが出したきれいな箇条書きをそのまま写したときとは、少し違う感覚があった。

分かったわけではない。
むしろ、分からないことが増えた。

でも、その分からなさは、前よりも具体的だった。

化学構造をどう数字にするのか。
実験前に分かる特徴量とは何か。
予測値をどこまで信じてよいのか。
良い材料とは、誰がどう決めるのか。

遥はノートの最後に、今日の先生の言葉を書き写した。

AIは魔法ではない。

その下に、自分の言葉を一行足した。

だから、自分で考えないといけない。

書いてから、少しだけ違う気がした。
「いけない」だと、義務のように聞こえる。

遥はその一行を消し、もう一度書いた。

だから、自分で考えられる余地がある。

その方が、少しだけ前向きだった。

画面の中のAIは、今日もすぐに答えを返してくれるだろう。先生も、先輩も、きっと聞けば教えてくれる。けれど、研究室で本当に始まるのは、その答えを受け取った後なのだと思った。

遥はノートを閉じた。

データ化学工学。

朝に見たときより、その言葉は少しだけ近くなっていた。

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