大学で講義をしたり、
企業やいろいろなイベントで講習会をしたり、
実験や演習用のテキストを書いたり、本を書いたり、
連載記事を書いたり、
いろいろな形式で “教える” を実践しています。
また、研究成果は学会などで発表したり論文の形で報告したりしています。
こういったことをするとき、お話は平等 (equality) なもの、テキストは公正 (equity) なものという意識でいます。このあたりについて説明したいと思います。
ちなみに、平等と公正の違いはこちらの図がわかりやすいと思います。
平等と公正が1秒でわかる画像がすごく腑に落ちるhttps://t.co/GDdz7SqZS0 pic.twitter.com/wqEpYMMkXa
— QP (@Maru49204644) December 4, 2019
お話するときもテキストを準備するときも、受け手のことを考えて内容を考えます。お話とテキストの大きな違いは、お話を聞く時間が決まっていますが、テキストを読む時間は決まっていなく受け手次第、ということです。講義とか講演会では時間が決まっています。たとえば、明治大学の講義は一コマ 100 分です。この時間は受け手に対して平等です。一人だけ 110 分、ってことはありません (遅れてきて 90 分ってことはありますが。。。)。この 100 分の間でできることを、わたしはします。受け手の背景・バックグラウンド・モチベーション・レベルを想定して、それに合わせて話の内容を考えて、話します。たとえば講義にて、一週間前に (もしくはもっと前に) 話したことのある内容であっても、話を覚えている人ばかりではないと考えて、もう一度おさらいしながら話します。
一方で、テキストを読む時間は、受け手それぞれです。受け手の背景・バックグラウンド・モチベーション・レベルによって、スラスラ読む (読める) 人もいれば、単語を調べながら読む (そうしないと読むのが難しい) 人もいます。なので、たとえば本の中や連載において、一度出てきたことは、もちろん「・・・を参照してください。」 のようなことは書きますが、同じことは基本的に繰り返しません。覚えている読み手は参照しなくてよいですし、覚えていない読み手は参照すればよいのです。こういう意味で、文章は公正なものと考えています。
ちなみに、同じ文章でも記事・本・ブログと論文とは書き方を変えています。記事・本・ブログは分かりやすさ優先、論文は正しさ優先といった感じです。誤解を恐れずにいえば、記事・本・ブログではわかりやすく・イメージしてもらいやすくするために、もちろんそれによって大きな問題が生じないことが大前提ですが、少し正しさを犠牲にすることがあります。論文では逆に正しさ優先です (もちろん論文もわかりやすく書くようにしています)。引用も、論文では基本的に査読ありのものにしますが、記事・本・ブログではわかりやすさを優先します。
お話で届けるときは、聴く人たちの基準をあるところに想定して、そこから目的地 (目標) までストーリーを展開するイメージでいます。文章で届けるときは、目標を定めて、それに向かってストーリーを展開させるような感じです。なので、文章を作るときには必要十分な引用をつけることも気をつけます。また、ある意味で文章の方が目標を高くあわせられると思います。
以上です。
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