データ化学工学研究室物語 第I部 第2章 AIの答えは、自分の理解ではない

データ化学工学研究室物語

I部 研究室配属前夜のデータ化学工学

研究室配属前の学部三年生が、AI・機械学習を化学・化学工学の研究に使う考え方を学ぶ。

第2章 AIの答えは、自分の理解ではない

 

研究室見学からしばらくして、遥たち三年生の研究室配属が仮決定した。

正式に四年生になる四月までの間、データ化学工学研究室では、仮配属となった学生を対象に新人トレーニングが行われることになっていた。Pythonの操作を覚えるだけではない。AI・機械学習を化学・化学工学の研究にどう使うのか、データをどう見て、何を問い、どこまで結果を信じるのか。その土台を作るための期間だと説明されていた。

仮配属の連絡が届いた数日後、遥の大学メールに、先生から最初のトレーニング課題が届いた。

研究室見学のときに選んだテーマについて、五分程度で説明してください。
何を知りたいのか。
何を入力として使えそうか。
AIや機械学習だけでは判断できないことは何か。
参考にした資料も、最後に示してください。

新人トレーニングの初回発表は一週間後だった。

遥はメールを二度読み返した。

四月になれば、自分はこの研究室の四年生になる。まだ正式な卒業研究は始まっていない。だからこそ、この期間に、研究に取り組むための考え方を身につける必要があるのだと、遥は感じた。

五分。
短いようで、何を話せばよいのか分からない時間だった。

研究室見学の夜に書いたノートを開く。

高分子膜の構造や作り方から、気体の透過性や選択性を予測できるか。

昨日までは、少し具体的に書けたことに満足していた。けれど、発表するとなると、その一文の中にも分からない言葉がいくつもある。

高分子膜とは、どのような膜なのか。
透過性とは、何がどれくらい通ることなのか。
選択性とは、何と何を分ける能力なのか。
構造や作り方を、どのような数字にすればよいのか。

遥は新しいスライドを開いた。

白い画面に、題名だけを入力した。

データ化学工学による高分子分離膜の設計

それから先が続かなかった。

十分ほどカーソルの点滅を見つめたあと、遥は対話型AIを開いた。

高分子分離膜をデータ解析・機械学習で設計する方法について、応用化学科の学部三年生が五分で説明する発表構成を作ってください。

回答はすぐに現れた。

背景。
高分子分離膜の原理。
機械学習モデルの構築。
候補材料の探索。
実験による検証。
今後の展望。

それぞれの項目には、発表で使えそうな説明文まで付いていた。

高分子膜は、気体分子の大きさや膜材料との親和性の違いを利用して、混合気体から特定成分を分離する。

化学構造、組成、製膜条件を入力とし、気体透過性と選択性を出力とする機械学習モデルを構築する。

モデルを用いることで、透過性と選択性をともに高める有望な高分子膜を効率的に設計できる。

文章は滑らかだった。
自分が言いたかったことが、先回りして整えられているように見えた。

遥は最初の二文をスライドに写した。
三文目も写しかけて、少しだけ手を止めた。

透過性と選択性を、ともに高める。

研究室見学のとき、先輩は、片方だけが良くてもだめだと言っていた。だから、両方を高めるという説明は正しそうに思えた。

遥は、そのまま入力した。

もう少し専門的に見える説明にしてください。

対話型AIは、自由体積、分子鎖の剛直性、極性基、ガスとの親和性、トレードオフという言葉を並べた。

見慣れない言葉もあったが、文章として読むと分かったような気がした。

遥はスライドを六枚作った。

一枚目は題名。
二枚目は高分子分離膜の役割。
三枚目はAI・機械学習を使う流れ。
四枚目は入力と出力。
五枚目は有望な材料候補の提案。
六枚目はAIだけでは判断できないこと。

最後のスライドには、研究室見学の夜に自分が書いた内容を入れた。

合成できるか。
膜にできるか。
予測値を信じてよいか。
どの性能を重視するか。

ここだけは、自分の言葉に近い気がした。

見た目を整えるため、矢印をそろえ、図形の大きさを合わせた。青色の枠の中に「化学構造・組成・製膜条件」、その右に「機械学習モデル」、さらに右に「透過性・選択性」と置いた。

きれいだった。

少なくとも、発表資料らしくは見えた。

次に参考資料を示そうとして、遥は困った。

説明の大半は対話型AIから得たものだった。

参考文献には、何を書けばよいのだろう。

遥はAIに聞いた。

この内容を説明するための代表的な参考文献を三つ挙げてください。

著者名、論文名、学術誌名、発表年が整った形で出てきた。

遥は安心して、そのまま最後のスライドに貼り付けた。

けれど、先生のメールにあった「参考にした資料」という言葉が、少しだけ気になった。

貼り付けた文献を、自分は読んでいない。
それどころか、本当に存在するのかも確認していない。

一つ目の論文名を大学図書館の検索画面に入力した。

見つからなかった。

英語の綴りを確認し、著者名だけでも検索した。似た題名の論文は出てきたが、AIが示した題名とは違っていた。

二つ目は、同じような題名の論文が見つかった。しかし、掲載誌と発表年が一致しなかった。

三つ目は存在した。けれど、本文を開くと、遥が発表しようとしている内容よりもはるかに専門的で、最初の数段落を読んだところで意味を追えなくなった。

遥は画面の前で動けなくなった。

回答は、あれほど整って見えたのに。
文献の形も、本物らしく見えたのに。

発表前日の夕方、遥は研究室を訪ねた。

ドアの近くにいたのは、見学のときに声をかけてくれた、紺色のパーカーの先輩だった。

「どうしました?」

遥はノートパソコンを開いた。

「明日の発表資料を作ったんですけど……参考文献が見つからなくて」

先輩は画面をのぞき込んだ。

「AIに出してもらいました?」

「はい」

「それなら、まず存在確認が必要ですね」

責めるような言い方ではなかった。
それがかえって、遥には恥ずかしかった。

「全部、間違っているんでしょうか」

「そうとは限りません。AIの回答には、正しい説明も、言いすぎた説明も、条件が抜けた説明も、単なる提案も、同じ調子で並びます。見た目だけでは区別しにくいんです」

先輩は、遥のスライドを最初から見た。

二枚目で手を止めた。

「ここに『高分子膜は気体分子の大きさや膜との親和性の違いを利用して分離する』とありますね。これは、どの資料で確認しましたか」

遥は答えられなかった。

「AIの説明です」

「では、これは今のところ『AIがそう説明した』という状態です。正しいかもしれません。でも、瀬戸さんが確認した事実にはまだなっていません」

先輩は新しい紙を一枚取り出し、四つの欄を書いた。

確認できた事実。
資料によって説明が異なること。
自分の解釈や仮説。
まだ確認していないこと。

「AIの回答を、一つの完成した文章として扱わない方がいいです。一文ずつ、このどこに入るか考えてみましょう」

遥は、スライドの文章を一文ずつ読み上げた。

「高分子膜は、気体分子の大きさや膜との親和性の違いを利用して、混合気体から特定成分を分離する」

「これは、まず教科書や総説で確認しましょう」

「化学構造、組成、製膜条件を入力として、透過性と選択性を予測する」

「そういうモデルは考えられます。ただし、全部を同じモデルの入力にできるかは、研究目的とデータ次第ですね」

「透過性と選択性をともに高める有望な高分子膜を設計できる」

先輩は少し考えた。

「これは、かなり強い言い方です」

「強い?」

「モデルが候補を提案できることと、本当に両方の性能が高い膜を実現できることは同じではありません。それに、透過性と選択性には、両方を同時に改善しにくい関係が見られることがあります」

「トレードオフ、ですか」

「言葉は知っているんですね」

「AIが説明してくれました。でも、どうしてそうなるのかは……」

「そこが、これから調べるところです」

先輩は笑った。

「知らない言葉を使うこと自体が悪いわけではありません。ただ、自分がどこまで説明できるかは分けておいた方がいいです」

四枚目のスライドには、入力と出力の図があった。

先輩は「製膜条件」の文字を指した。

「製膜条件を入力にするのは、何を予測したいからですか」

遥は考えた。

「膜の性能は、化学構造だけでなく、作り方でも変わると思ったからです」

「いいですね。では、製膜条件として何がありますか」

「温度……時間……膜の厚さでしょうか」

「膜厚も大事です。ただ、ここで一つ、言葉を区別した方がよいかもしれません」

先輩は、遥のスライドにある「膜を薄くすると透過性が高くなる」という一文を示した。

「これはAIが書いたものですか」

「はい」

「膜を薄くすれば、同じ面積あたりに通る気体の量は増えやすくなります。でも、それを材料そのものの『透過性が高くなった』と表現してよいかは別です。何を測っている値なのか、定義を確認しないといけません」

遥は、文章を見つめた。

意味は通じると思っていた。
けれど、専門用語の一つが少しずれるだけで、説明しているものが変わってしまう。

「AIは、そこを間違えたんですか」

「間違いと断定する前に、瀬戸さんの質問が曖昧だった可能性も考えた方がいいです。AIは『透過性』という言葉を広い意味で使ったのかもしれません。質問した側と答えた側で、言葉の意味がそろっていないこともあります」

「質問する側にも問題がある……」

「研究でも同じです。目的変数の定義が曖昧なら、どれだけ高度なモデルを使っても、何を予測しているか分からなくなります」

先輩は、大学図書館のデータベースを開いた。

「まずは、発表で対象とする気体の組を決めた方がよいですね。何を分離したいですか」

遥は研究室紹介で見た例を思い出した。

「二酸化炭素と窒素にします」

「では、『高分子膜 二酸化炭素 窒素 透過性 選択性』に相当する英語の検索語を考えてみましょう」

遥は再びAIを開きかけた。

その手を、途中で止めた。

「AIに検索語を考えてもらってもいいですか」

「もちろん。ただし、出てきた用語が本当にこの分野で使われているかは、検索結果や資料で確認しましょう。AIに答えを書かせる代わりに、調べる入口を増やしてもらう使い方ですね」

遥はAIに尋ねた。

高分子膜による二酸化炭素と窒素の分離について、教科書や総説を検索するための英語のキーワードを挙げてください。また、調べるときに確認すべき測定条件も挙げてください。

今度の回答には、検索語と一緒に、温度、圧力、単一気体か混合気体か、膜の状態、測定方法などが並んだ。

先輩は画面を見て言った。

「この回答は、そのまま発表文にするものではありません。でも、確認項目の候補にはできます」

遥は検索語を使って、入門的な解説と総説を探した。

一つの資料には、高分子膜の中を気体が移動するとき、気体が膜材料に取り込まれることと、膜の中を移動することの両方が関係すると書かれていた。

別の資料には、透過性と選択性の間には一般にバランスがあり、単純に両方を最大にすればよいわけではないと説明されていた。

さらに別の論文では、同じ種類の高分子でも、測定温度や圧力、膜の作製方法によって報告値が異なっていた。

「同じ材料なのに、値が違います」

遥は二つの表を見比べた。

「どちらかが間違っているんでしょうか」

「その可能性もあります。でも、条件が違えば、どちらもその条件では正しいかもしれません」

「じゃあ、材料名と数値だけ集めても……」

「比較できないことがあります。データは、数字だけではありません。その数字が、何を、どの条件で、どう測ったものなのかという情報も必要です」

遥はノートに書いた。

データ=数値だけではない。
条件と意味も含む。

先輩は続けた。

「機械学習では、表に数字が並んでいると、すぐモデルを作りたくなります。でも、意味の違う数字を同じ列に入れたら、モデルはその違いを知りません」

「人が整理しないといけないんですね」

「そうです。AIがモデルを作る前に、人がデータの意味をそろえる必要があります」

二人で確認を続けるうちに、遥のスライドには赤い文字が増えていった。

どの気体の組か不明。
測定条件が不明。
透過性の定義を確認。
出典未確認。
「両方を高める」は言いすぎ。
合成可能性と製膜可能性は別に検討。

最初は、資料が壊れていくように見えた。

けれど、赤い文字が増えるほど、何を直せばよいかが分かってきた。

「きれいじゃなくなりました」

遥が言うと、先輩は画面を見た。

「研究の途中は、だいたいこんなものです。分からないことが見える資料の方が、分かったふりをする資料より先に進めます」

その言葉を聞いて、遥は少しだけ肩の力を抜いた。

家に帰ってから、発表資料を作り直した。

題名は同じにした。

データ化学工学による高分子分離膜の設計

ただし、その下に小さく対象を書き加えた。

二酸化炭素と窒素の分離を例として

二枚目では、膜による分離の考え方を、自分が読んだ資料の範囲で説明した。

三枚目では、何を知りたいのかを一文にした。

高分子の構造や作製条件から、定めた測定条件における二酸化炭素の透過性と、二酸化炭素・窒素の選択性を予測できるか。

四枚目では、入力の候補を二つに分けた。

高分子の構造から計算できる特徴量。
膜を作る前に設定できる作製条件。

その横に、注意点を書いた。

予測したい時点で値が分からないものを、安易に入力にしない。

五枚目では、「透過性と選択性をともに高める」と断定するのをやめた。

透過性と選択性のバランスを考えながら、目的に合う候補を探す。

六枚目には、AIだけでは判断できないことに加え、まだ自分が分からないことも書いた。

異なる文献のデータを、どの条件までそろえれば比較できるか。
高分子の合成可能性と、膜としての成形可能性をどう評価するか。
予測モデルを信頼できる範囲をどう決めるか。

最後のスライドには、実際に読んだ資料だけを示した。
見つからなかった文献は削除した。

それでも、発表が良くなったという自信はなかった。
前の資料の方が、完成しているようには見えた。

翌日、仮配属となった五人の学生が、新人トレーニングのために研究室へ集まった。

遥の発表は三番目だった。

最初のスライドを映したとき、手のひらに汗を感じた。

五分間、遥はできるだけ、自分が説明できる言葉だけを使った。

途中で一度、「自由体積」という言葉を使いかけた。けれど、十分に説明できないと思い、別の言い方に変えた。

「高分子の中で、気体分子が入り込んだり移動したりできる空間の違いも、透過に関係すると考えられます」

完璧な説明ではないかもしれない。
それでも、昨日までのように、意味を考えずに専門用語だけを置くよりはよかった。

発表が終わると、先生が尋ねた。

「前回の見学のときに書いたものから、何が変わりましたか」

遥は準備していた答えを探した。
しかし、少し考えてから、スライドに書いていないことを話した。

「最初は、AIが出した説明を読むと、全部分かったような気がしました。でも、一文ずつ確認すると、対象とする気体も、測定条件も、言葉の定義も曖昧でした」

先生はうなずいた。

「それで、どうしましたか」

「対象を二酸化炭素と窒素に絞りました。透過性と選択性について、読める範囲で資料を確認しました。それから、AIの回答を、そのまま発表文にするのではなく、検索語や確認項目を考えるために使いました」

「分からないことはなくなりましたか」

遥は一瞬迷った。

「いいえ。増えました」

研究室の何人かが笑った。
先生も少し笑った。

「では、失敗でしたか」

「最初より、何が分からないかは言えるようになりました」

口にしてから、それが本当に自分の変化だと思った。

先生は、最後のスライドを見た。

「この三つの未解決点は、どれも大切です。今の段階で答えが出ていなくても構いません。分からないことを具体的にできれば、次に何を調べ、何を試すかを考えられます」

先生は少し間を置いた。

「AIを使ったことを隠す必要はありません。ただし、AIが書いた文章と、あなたが根拠を確かめて理解した内容を、同じものとして扱わないことです」

遥は、はい、と答えた。

「では、もう一つ質問します。この発表の中で、瀬戸さん自身がしたことは何ですか」

前日なら、答えられなかったかもしれない。

「対象を絞りました。AIの説明を一文ずつ分けて、資料で確認しました。言いすぎているところを直しました。条件の違うデータを、そのまま比較できないことに気づきました。それから、まだ分からないことを残しました」

先生はうなずいた。

「十分です。大きな成果でなくても、自分で確認して一歩進めたことが大切です」

発表が終わったあと、紺色のパーカーの先輩が、遥の席まで来た。

「昨日より、ずっと良くなっていました」

「でも、分からないことばかりです」

「研究を始める前に、分からないことが分かったなら大きいですよ」

先輩は一つのファイルを遥に送った。

polymer_membrane_sample.csv

「次は、言葉ではなく、実際のデータを見てみましょう。仮想的な高分子膜のサンプルデータです」

遥はファイルを開いた。

縦には、polymer_001、polymer_002、polymer_003と名前が並んでいる。
横には、英語の列名と数字が並んでいた。

polymer_descriptor_1。
polymer_descriptor_2。
preparation_temperature。
measurement_temperature。
co2_permeability。
co2_n2_selectivity。

数字は整然と並んでいた。

けれど、もう、ただの数字には見えなかった。

どの条件で測ったのか。
何を表す列なのか。
予測する前に値が分かる列なのか。
同じ意味の数字が並んでいるのか。

先輩から、もう一つメッセージが届いた。

次回までに、この表の一行と一列が何を意味するか、自分の言葉で説明してみてください。

遥は画面を見つめた。

対話型AIに聞けば、データセットの一般的な説明はすぐに返ってくるだろう。

けれど、まずは自分で列名を一つずつ見てみようと思った。

ノートの新しいページに、五つの言葉を書いた。

AIに聞く。
回答を一文ずつ分ける。
根拠と条件を確かめる。
自分の問いに戻す。
分からないことを残す。

そして、その下にもう一行加えた。

きれいな答えより、次に進める問い。

遥は、最初の列名に丸を付けた。

polymer_descriptor_1。

それが何を意味するのかは、まだ分からない。

だからこそ、次に調べることが一つ決まった。

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